creepsは、来年1996年3月の結成から丸30年を迎えます。といってもオリジナルメンバーは自分だけですし、胸を張れるようなことでもなく、何かを成し遂げたわけでもないのですが、こうして長く活動を続けられていることと、応援してくださる皆さんに感謝しつつ、結成当時を振り返ってみたいと思います。当時21歳だった自分が、どういう経緯で「creeps」というバンドを始めたのか。その起こりを紹介します。
何かが足りなかった、社会人生活の始まり
自分等が再び真剣に楽器を手に取ったのは、1994年頃のことでした。
高校時代に夢中になったバンド活動の熱が忘れられず、幼馴染だったボーカルと二人で、もう一度バンドを始めようと決めたのがきっかけです。高校を卒業し、社会人として歩み始めましたが、当時の生活の中には、心から打ち込める「生きがい」と呼べるものが見つからず、どこか満たされない思いがありました。
18~19歳の頃は、免許を取ったばかりということもあって車にお金をかけてみたり、毎週末、車で出かけ、夜は仲間と飲みに行ったりと、社会人になって手に入れた自由な時間を謳歌していました。しかし、それも長くは続かず、すぐに虚しさを感じるようになりました。考えてみれば、当時はまだ携帯電話もスマートフォンもない時代です。今のように手軽な娯楽がなかった分、余計にそう感じたのかもしれません。
そんな中で、自分等の心をもう一度熱くさせたのは、やはり「音楽」でした。 世間では1993年〜1994年というと、バンドブームは落ち着き、音楽シーンはJ-POPの黄金期を迎えていました。小室哲哉さんプロデュースの楽曲や、Mr.Children、スピッツ、B’zといったアーティストがチャートを席巻している時代です。流行りの曲をコピーするという案もあったのですが、最終的には自分等のルーツでもあり、高校時代にコピーしていたZIGGY、THE MODSといった、80年代から90年代初頭の、骨太なロックを鳴らしていたバンドの曲を再びカバーしていました。
当時の幼馴染は、リーゼントにサングラス、白いTシャツにスラックスを履き、セカンドバックを脇に抱え、首にはシドチェーンをしていました。自分は、ベリーショートという名の実際はスポーツ刈り、ロンTにEdwinのロンドンスリムのブラックジーンズ、ラバーソールを履いてたように思います。そんな風貌の二人が地下のスタジオでJ-POPをカバーし、歌とエレキギターのみで、幼馴染はマイクスタンドを振り回しながら熱唱していたことを思い返すと、ただただ滑稽でしかなく、もちろん真剣に取り組んでいましたが、人前に出ることがなくて良かったと心から思います。ニューロティカの曲もよくやってましたね、そういえば。「アイキタ」とかコーラスしていたことを今、思い出しました。
迷走を経て掴んだ、シンプルな衝動
やがて高校の友人だったギタリストとドラマーが加わり、4人になった自分等は「グリーンチャイム」というバンド名で活動をスタート。憧れのバンドのカバーをしながら、オリジナルの曲作りも始めました。市内のライブハウスにも立ちましたが、動員は友人が数名程度。バンドに興味のある友人も少なかったため、増えるわけもなく、伸び悩む時期が続きます。※この時期、毎回ライブに来てくれていたのが、弘前が誇るパンクバンド「頭蓋骨陥没楽団」のドラマー、A先輩です。たぶん初ライブから見てくれています。
「もっと本気でやらなければ。」そう決意したのは、リーダーでボーカルの幼馴染でした。
バンド名を「WHITE CROWS」に改名し(自分が付けた訳ではないです…)、オリジナル曲のみで本格的に活動することを決めます。70年代の初期パンクに影響を受けた楽曲と、ルックスにも徹底的にこだわり、ニューヨーク・ドールズのようなスタイルを目指したのですが、結果としてなぜか当時のヴィジュアル系のような風貌に…。今思い返すと、若気の至りというか、本気で取り組んだはずが、少々おかしな迷走でした。積極的に活動を展開しましたが、動員は伸びるどころか、むしろ減ってしまったように記憶しています。
出口の見えないそんな中で、ボーカルはイギリスのバンドOasisの音楽に大きな衝撃を受け、バンドの方向性に疑問を感じ始めます。そして、それがきっかけとなり、彼は脱退を選びました。
「グリーンチャイム」「WHITE CROWS」ともに、コンテストへの応募もしていました。BSヤングバトルとか、CREEPSになってからも応募していたと思います。94~97年くらいまでだったかと。
当時はデモテープと、映像も必要だったので、スタジオに固定カメラをセットして、演奏したものを撮影し送っていました。ギターソロになると、ギタリストが自らカメラ前に出ていって弾くという、冷静に見るとなかなか恥ずかしい映像だったかと。地区ブロックは余裕で突破、全国大会へ出場、入賞できるものと信じてました。バンドマンはみんなそんなもんだと思いますが、身の程知らずの勘違いとは怖いものです。
1996年3月、「CREEPS」結成へ
脱退した幼馴染のボーカルは、自分を新しいバンドに誘ってくれましたが、自分はその誘いを断りました。自分が心底求めていたのは、「WHITE CROWS」で試行錯誤を重ねたスタイルではなく、もっと削ぎ落とされた、シンプルでポップ、そして熱量を持ったパンクロックだったからです。
当時、バンドとして目指し憧れていた音楽は、Green Day、Hi-STANDARD、Snuff、Rancid、NOFXなど、いわゆるメロコア的なものでした。初期パンクを聴いた時ほどの衝撃はなかったのですが、これまで聴いていたロックやパンクよりもアンダーグラウンドなカッコ良さというか、とにかく新しさを感じました。ラバーソールやマーチンから自然とスニーカーへ履き替えたのもこの時期です。
同じくパンクロックが好きだったギタリストと二人でトリオバンドを組むことにしました。ドラマーを探していたところ、図らずも旧バンドで叩いていたドラマーが「俺も入れてくれ」と加入を志願。他にドラマーも見つからなかったこともあり、お願いする運びとなりました。
こうして、「グリーンチャイム」と「WHITE CROWS」という前身バンドから、結果的にボーカルが抜けた形で、残ったメンバー3人で1996年3月「CREEPS」を結成しました。
バンド名はギタリストの坂本氏が名付け親です。
Green Dayの名曲「Basket Case」の歌詞の一部から取っています。Radiohead の代表曲「Creep」からですか、と聞かれることもあるのですが、そうではなく、Green Dayからでした。ちなみにメンバーの中でRadioheadを聞いていたのは自分だけだと思います。
CREEPSとして初めてスタジオに入ったのは、いつものリハーサルスタジオが空いていなかったため、駅前のカラオケボックスでした。音響はお世辞にも良いとは言えない、悪戦苦闘の環境で(そして、そこでリハをしたのは、この時一回限りでした)、初のオリジナル曲「SPRING DAY」が生まれたと記憶しています。
そして同月に初ライブをすることとなります。場所は今は亡き、土手町にあった中三デパートのアストロホール。バンド仲間が主催したライブイベントで、あまり記憶はないのですが、自分としては初のベースボーカル、10代からのバンド活動の中でもメインボーカルとして歌ったのも初めてでした。「意外に良かった」的な感想をもらったような気がします。手探りではあったものの「グリーンチャイム」と「WHITE CROWS」よりは、良い感触があったことは確かです。
結成の経緯についてはこんな感じだったかと。
なんの面白味もない話ですが、30年ということもあるので、ディスクレビューや全曲紹介、昔の写真なんかも掲載していけたらと思っています。
不定期になりますが、読んでいただけたら嬉しいです。
