1996~1998年のこと。

creepsの30年を振り返る連載、第二回目は1996年から1998年頃までの活動を振り返ります。
前回の投稿でかなりのアクセスがあり反響もありました。
みんな、うちらのことを気にかけてくれているんだな~と嬉しくもなりました。
来年はバンドとして次のステップに進むため少しの間、活動を休みますが、その間、このブログを読んで楽しんでいただければ幸いです。

本題に入る前に、一つお断りしておきたいことがあります。

自分と親しい間柄、もしくは近くにいた方であればご存知のことですが、2006年頃から約10年間、個人的な事情など様々なことがあり(当然ながらここで詳細を記すことはしません)、その期間だけでなく、それ以前の記憶がかなり曖昧になり、消えてしまったことが多々あります。ライブ日程や対バンなど、以前は割としっかり覚えていた方だとは思いますが、激動の日々を経て、忘却したというより、自分の中から「そのこと自体」が完全に消えている場合もあります。加齢によるものもあるでしょう。

そのため、なるべく曖昧なことは書かないように努めますが、【すべて自分の記憶が正しければ】という前提となります。もしかしたら、事実と異なる場合や、主観的な内容になっているかもしれません。どうかご了承いただければ幸いです。

それでは、本編を始めます。

ライブ活動の広がりと仲間との出会い

1996年の初ライブ以降、幸いにもライブオファーは増え、順調にライブを重ねることができました。当時、弘前や青森県内ではトリオバンド自体が少なく、珍しがられたこと、そしてPOPで分かりやすい音楽性だったこともあってか、対バンを選ばず、どのようなイベントでも概ね受け入れられたように思います。

バンドマンの友人や仲間と呼べる人たちとの出会いもあり、知り合いが大きく増えたのもこの時期です。親しい仲間とはほぼ毎日、仲の良かった友人とは毎週末、顔を合わせていた時期もありました。今でも数名はバンドを続けていたり、音楽業界にいたり、ライブハウスのオーナーになっていたり、たまに長電話したり、SNS上で繋がっている人もいます。

初のデモテープ制作とレコードショップとの繋がり

初のデモテープを制作してからは、県外や東京での初ライブも行い、県外のバンドやイベント主催者とも接点ができました。ちなみに初の県外ライブは山形市で、出演したイベントは「破壊革命」というハードコアのイベントでした。東京での初ライブも経験し、見事に惨敗。ライブ後、泊まるところを探しながら、高円寺から阿佐ヶ谷まで歩いていたら、警察に職質を受けました。阿佐ヶ谷のサウナを紹介され、そこで一夜を過ごしました。

デモテープを地元のレコードショップ「JOY-POPS」に持っていったのもこの時期で、この時、初めてオーナーの浩さんと話すことになります。中学の頃から店には通っていましたが、接客以外で話をしたのはこの時が初めてでした。すぐに店内でかけてくれて、「SPRING DAY」を気に入ってもらったのです。これをきっかけに浩さんにも認識されるようになり(笑)、現在も自分が「JOY-POPS」のスタッフでいられることに繋がっています。

東京へライブを見に行くようになったのもこの頃です。夜行バスや寝台列車に乗り、下北沢を目指しました。デモテープも持っていき、ライブハウスやイベント主催者、レーベル、ライブを見てカッコいいなと思ったバンドの人にデモテープを渡したりもしました。東京のライブハウスでは終演後、会場の外で、ライブハウスから出てくるお客さんに対して、たくさんのバンドマンやミュージシャンが自分達のライブのフライヤーやチラシを配っていました。この光景を目の当たりにしたのは初めてで、すぐに弘前でも真似をしました。ライブハウスや駅、土手町、大学や高校の正門の前など、今だと確実にアウトな迷惑行為でしかありませんが、若気の至りというべきか、自分には珍しく物怖じせずに実行していました。しかも手作りのチラシはお世辞にもカッコ良いものではなかった(笑)。結果として注意されることとなり、時には警察も来たりして、長くは続きませんでした。

音楽だらけの私生活と充実感

そこで、アパレルショップ、具体的には古着屋やセレクトショップにチラシを持っていく方向へシフトしました。弘前市内ではあまり受け入れられなかったのですが(笑)、青森市のショップでは快く貼ってくれたところもありました。いくつかのお店の店員さんとはそれがきっかけで仲良くなり、ライブにも来てくれたり、自分も買い物をしたり、そうした関係性が長く続いたのです。青森市の方が当時のストリート系の音楽シーンに興味を持っている人が多かったように思います。

この頃の自分は、平日の仕事終わりや週末はほとんど音楽やバンド活動に費やしていました。今、思い返すとこの頃が一番楽しかったかもしれません。とにかく音楽が第一優先でした。女の子が好きなメンバーや友人が、今で言う合コン的な飲み会を開催し、人数合わせのため、自分もよく呼ばれました。もともとアルコールを飲まない自分でしたが、楽しさが分からず、こんなことに時間を使うのであれば、部屋で音楽を聴いたり、曲を作った方がいいと思い、乾杯して間もなく帰るという、今考えると非常に失礼極まりない奴だったなと反省しています。ちなみに今はそんなことはしません。

ライブハウスはいつもガラガラで、集客はありませんでしたが、何か始まりの予感がありました。すべてが新鮮でしたし、インディーズシーンへの憧れやアンダーグラウンドなカッコ良さを感じていました。お客さんも含めて、このシーンにいることが自分等の中でステータスだったように思います。

100人動員と賞金獲得

自主企画イベントや、ツアーバンドのサポートのため、バンド仲間との共同企画イベントも始めました。ゲストバンドの力も借りて(実のところ、ほぼゲストバンドの人気でしたが)、初めてお客さんが100人を超えるイベントを経験しました。地元のライブハウスでモッシュやダイブ、スカダンスを体感したのです。一緒に企画をしていた仲間の一人は感動して泣いていました。チラシ配布も含めて、地道な宣伝活動を続けていた成果が少し表れたようにも思いました。

バンド活動はもちろん大赤字でしたが、デモテープの売上やライブでのチャージバックなど、ほんの数万円ながらバンド貯金がありました。真実は闇の中ですが、このバンド貯金が消えてしまったことがありました。そんな時、黒石市で開催されるイベント(確か「ヤングフェスティバル」だったと記憶しています)を、バンド仲間が教えてくれました。なんと優勝賞金は現金10万円。出演できる条件は年齢制限のみで、ジャンルレスでした。バンドでもダンスでもヒップホップでも民謡でも、オリジナルでもカバーでもカラオケでもなんでもありでした。出演者が多かったせいか予選もあり、予選会場には友達や知り合いのバンドも含めて、多数のバンドがいました。バンド部門の出演枠は4つ。当時地元で名が知れているバンドや、実力があったバンドもいて、「これは無理だな」と思ったりもしたのですが、それより何より衝撃的だったのは、予選会に準備されていたドラムセットのバスドラが二つあったことです。ツーバスというものです。

経緯については割愛しますが、結果、CREEPSは優勝し、賞金10万円を手にしました。発表が終わって控え室に戻ると他の出演者から祝福モードは一切なく、皆不満を口にしていました。そもそもジャンルレスでの審査は難しかったようにも思いますし、残念ながら、自分等としてもそれらを説得できるパフォーマンスではなかったのかもしれません。審査員の中には謎の若い女性がいて、その人はダンサーでした。審査員の中で一人だけアーティスト名でしたし、何者かは不明でしたがドレッド的な髪形でミステリアスなオーラを放っていました。その人だけが唯一そばに来て「良かったよ、私が票を入れたんだよ」と話しかけてくれました。その女性とはその後、会うことはありませんでしたが、今でも謎に包まれたままです。

賞金の10万円は、その日の夜、一緒に出演して予選落ちしたバンド仲間と共に歓楽街で使ってしまいました。浮かれたメンバーが無駄に「刺身の船盛」など派手に注文し、6人で数件を飲み歩き、ゼロになりました。「ロック」なことをしたかったのかもしれません。そして、その浮かれたメンバーは、バンド貯金を無くした張本人だったことは言うまでもありません。

県外でのライブやツアーで学んだこと

県外でのライブや、ツアーバンドとのライブでは、様々なことを教わりました。バンド活動全般もそうでしたが、リハーサルから本番、打ち上げまでの立ち回りなど初めてのことも多く、すぐに影響されました。リハーサルでのサウンドチェックで「ドラム三点を返してもらえますか」とか、ステージから降りて出音を聞いたり、大して分かってもいないのに、すぐに真似をしたりもしました。そうした振る舞いがカッコ良く見えたのだと思います。

また主催者や地元バンドのもてなし、ホスピタリティもとても勉強になりました。宿の手配から食事、おすすめの店に連れていってもらったり、主催者の人の部屋に泊めてもらったり、翌朝は見送ってくれたり、バンドのツアーにおけるすべてを学んだ気がします。

ライブも音楽活動も順調に見えましたが、音楽性的には迷いもありました。日本語の曲がメインでありながら、英語歌詞の曲も増え、辞書で調べながら文法も発音も適当な歌詞を歌うことに違和感を覚えたり、対バンはジャンル的にメロコア、ハードコア、スカパンク、ミクスチャー、ラウドロック的なバンドが多い中で、自分はパンクロックも好きでしたが、ギターロックやギターポップ、いわゆる日本のロックも好んで聞いていた背景もありました。その結果、CREEPSとしての楽曲制作やライブパフォーマンスに悩み、焦り始めた時期でもありました。

一番仲が良かったバンドがメジャーデビューをして上京したことや、直接的な接点や影響はなかったですが青森出身のバンド「スーパーカー」がデビューしたことも、自分を刺激したのかもしれません。ちなみにメジャーデビューした仲間のバンドのメンバーには、前回のブログに書いたCREEPS以前にやっていたバンド「グリーンチャイム」「WHITE CROWS」のボーカルであり幼馴染がベースとして在籍し、ギターボーカルは自分の親友と呼べる男でした。

そのバンドはさきほど紹介した黒石の「ヤングフェスティバル」にも応募していて、予選で審査員に噛み付いた結果、予選落ちでした。もし彼らが本選に出場していれば、若者の可能性を発掘するコンセプトだったことも含めて「ヤングフェスティバル」出身バンドがメジャーデビューという美談になったはずです。うちらなんかが優勝したばかりに、その後、数回の開催を経て終了となったことも含めて、多少申し訳ないと今でも思います。

SNAIL RAMPとの出会い

話がそれてばかりですが、CREEPSにとって大きな転機となるバンド「SNAIL RAMP」と出会います。青森市と秋田市のライブをご一緒させてもらいましたが、自分にとっては衝撃的な出会いでした。ライブパフォーマンスはもちろんのこと、楽曲も含めて、自分にとって理想のバンドであり、憧れとなりました。98年には弘前、秋田、仙台に連れていってもらいながら、バンドや楽曲に対するアドバイスや、ライブ以外の時間などでも、多くのことを教えてもらいました。

何かに書いたことがありますが、ツアーサポートをした中で、うちらのリハーサルをしっかり見てくれて、アドバイスも含めて声をかけてくれたのはSNAIL RAMPの竹村さんだけでした。(竹村さん的には、リハーサル終わりで周りに何もなくて、他に行くところもなかったから会場でリハーサルを見るしかなかった、的なコメントをしていましたが(笑))

仙台でのリハーサルの途中、僕らのステージに来て「今、やった曲は新曲?デモテープできたら送って。」と言ってもらえたこと、今でも忘れないくらい、震えるほど本当に嬉しかったことを覚えています。リハーサルのあと、ほとんど感情を出さない、口数もほぼないギターの坂本氏が興奮して、ガッツポーズをしていたのが印象的でした。仙台では牛タンもごちそうになりました。

そして、激動の1999年を迎えることとなります。