激動の1999年

かなり間が空いてしまいましたが、いよいよ激動の1999年のことを書こうと思います。

何が「激動」だったのかと言われると、もしかしたらそれは自分だけの感覚かもしれません。ただ、自分にとってこの1999年が、CREEPSというバンドにとっても、そして個人的にも、忘れられない一年であったことは間違いありません。

激動の1999年、その始まり。

結成から数年が経ち、ライブの本数や経験値もそれなりに積み重なってきた頃でした。1997年にオープンしたライブハウス「弘前Mag-Net」を拠点に、ツアーバンドやゲストバンドを招いたイベント、自主企画、県外でのライブやツアーサポートなど、活動の幅は確実に広がっていました。外から見れば、ようやく軌道に乗り始めたように見えていたかもしれません。

しかし、バンドの内側では、そんな雰囲気とは裏腹に、少しずつ迷いが顔を出し始めていました。サウンドの方向性、曲作り、ライブの手応え、そして何より集客力不足。今後の活動や目標など、はっきりとした答えが出ないまま、モヤモヤした感覚だけが残っていたように思います。

1999年の年明け、メンバーで話し合う機会を持ちました。かつて弘前駅前にあった「白木屋」という居酒屋チェーンに集まって、緩く、ぎこちなく話し合いが始まったように記憶していますが、雑談が終わった頃、本題であるバンドのこれからについて「解散」という言葉を自分が発しました。ここまでやってきたからこそ、中途半端に続けるくらいなら、一度きちんと区切りをつけるべきではないか、という考えが少なくとも自分の中にはあったからです。24歳という年齢的な焦りもありました。

ところが、意外にもメンバーの反応は、後ろ向きなものではありませんでした。少なくとも「もういいや」と投げ出す空気はなく、「もう少しだけ、本気でやってみよう」という、曖昧ではあったものの、ある意味とても前向きで、当時の自分たちには必要だった決断に落ち着きました。

SCHOOL BUS RECORDSからの電話、東京、渋谷CLUB QUATTRO、そして初めての景色。

そんなタイミングで、思いもよらない話が舞い込みます。

SNAIL RAMPの竹村さんからの電話。憧れていたインディーズ・レーベル「SCHOOL BUS RECORDS」から、オムニバスアルバムへの参加、楽曲提供の依頼が来たのです。踊りだしたくなるほど、嬉しかったことは間違いないです。

この出来事は、バンドだけでなく、僕個人の人生にも大きな影響を与えました。仕事を辞める決断をし、3月末でいわゆる「脱サラ」をします。今思えば、なんの保証もないのに、ずいぶん思い切った選択だったと思いますが、当時は若さゆえの勢いもありましたし、「今やらなかったら、もう一生やらないだろう」という気持ちも強かったのだと思います。バンドメンバーとの話し合いが先にあって、継続を決めた直後の出来事だったことも、想いを加速させたことは間違いないです。そこで書いたのがオムニバスの収録曲となる「新たなる一歩」でした。まさにその時の気持ちを歌にしています。

そして4月、オムニバス参加曲のレコーディングのため東京へ向かいました。初めての本格的なレコーディング、スタジオの空気、エンジニアの視線、東京という街のスピード感。期待と緊張が入り混じった、なんとも落ち着かない時間だったことを覚えています。レコーディング終了後、竹村さんがラーメン屋に連れていってくれました。その時、僕は初めて家系ラーメンを食べ、その美味しさに驚きました。※当時、弘前には家系ラーメン的な店は無かったです。

5月にはKEMURIとの対バン。そして7月には、SNAIL RAMPのライブで渋谷CLUB QUATTROのオープニングアクトを務めることになります。

それまで経験したことのない規模の会場、そして目の前に広がるお客さんの数に、正直かなり浮き足立っていました。緊張もありましたが、それ以上に「とんでもない場所に来てしまった」という高揚感のほうが強かった気がします。

ところが、ステージに上がった瞬間、会場の空気は想像を超えるものになりました。大げさではなく、一曲目からフロアは大きく反応し、自分たちの予想をはるかに超える景色が目の前に広がっていました。ビギナーズラックとは少し違うのかもしれませんが、「こんなことが本当にあるんだ」と思うほどの出来事でした。

この日、スタッフとして同行してもらった当時大学生のT氏(現在はライブハウスのオーナーです)にライブ写真の撮影をお願いし、カメラを渡していました。ところが、あまりの盛り上がりに本人もライブに見入ってしまったのか、撮影することを完全に忘れていたようで、この日の写真は一枚も残っていません。

さらに、持参した100本(たぶんそのくらいです)のデモテープも完売。今振り返っても、自分のキャリアの中で忘れられない体験のひとつです。

この日、予定の2時間前に会場に着いてしまい、機材搬入をしようとしたら、早すぎると注意を受けました。謝りつつも、この面倒くさい人は誰なんだろうと思っていましたが、ライブが終わると、うちらの音楽やパフォーマンスをとても褒めてくれました。ライブ制作のAさんとの出会いです。Aさんとはこのライブをきっかけに交流がはじまり、その後、現在に至るまで、とてもお世話になり、CREEPSの活動に欠かせない人物となります。

ちなみにT氏ですが、撮影できなかったことを挽回しようとしてか、打ち上げでたくさん飲酒をして、最終的には何もまとわない身体になって場を盛り上げようとしていましたが、そのストロングスタイルは残念ながらあまり受け入れられることなく、その時の打ち上げの写真だけが今も自分のもとに残っています。

Hi-STANDARD弘前公演、オープニングアクトの経緯。地元で迎えた、CREEPS史上最大の夜。

そして、そのわずか一週間後。Hi-STANDARDの「MAKING THE ROAD TOUR」で、地元・弘前Mag-Netのオープニングアクトを務めることになります。

まず、なぜ自分たちが選ばれたのかについて、書いておく必要があると思っています。

このツアー制作のタイミングで、PIZZA OF DEATHから会場である弘前Mag-Netに電話があって、地元バンドを紹介(推薦)してほしいという依頼があったと聞いています。

当時、候補として挙がった地元バンドは、僕らCREEPSと「S.P.N Power」の二組でした。

率直に言えば、当時の弘前のバンドシーンにおいて、人気、実力ともに上だったのは間違いなく「S.P.N Power」でした。自分自身もそう思っていましたし、もし純粋に勢いや実績だけで考えるなら、彼らが選ばれるのが自然だったと思います。

そんな中、Mag-Netのオーナーは、年齢的にも少し上で、バンドとしても地元・弘前で地道に活動を積み重ねてきた僕らの背景を汲み取り、最終的にCREEPSを選んでくれました。

そして何より、自分たちが今でも感謝しているのは、「S.P.N Power」がその判断を快く受け入れてくれたことです。もし彼らの理解がなければ、この日の出演は成り立たなかったと思っています。

うちらの出演が決まったあと、Hi-STANDARDの難波さんから直接電話を貰ったことも忘れられない出来事です。

この日の盛り上がりは、間違いなく、それまでのCREEPS史上最大だったと思います。渋谷CLUB QUATTROでのライブも衝撃的でしたが、この日は、普段はほとんどガラガラだった地元・弘前の会場が埋まり、会場全体が異様なくらいの熱狂に包まれ、その光景も含めて、さまざまな想いが残っています。

ただ、ライブ自体は緊張と興奮のあまり、自分たちにとっては過去最悪でした。自分のモニターからは、それまで聴いたことのないバスドラム(キック)の音が鳴り、そのタイミングもぐちゃぐちゃで、自分のベースも歌もフワフワしたまま、出番は終わり、何を演奏したのかすら、ほとんど覚えていない状況でした。

少しだけ覚えているのは、この日の感動をどう伝えるか、熱い話をしようか、少し格好をつけようかと、本番直前までMCを考えていましたが、でも、いざステージに立つと頭が真っ白になり、ほとんど何も話せなかったことです。

そして、一番印象に残っているのは、本番直前、ステージ袖で緊張していた僕らのもとへ、Hi-STANDARDのメンバーの皆さんが一人ずつ来て、声をかけて緊張をほぐしてくれたことです。今思い出しても胸が苦しくなるほど、大切な記憶です。

もちろん、Hi-STANDARDのライブが素晴らしかったことは言うまでもありません。

この日に経験できたことすべてに、今でも心から感謝しています。

この日を境に、状況は少しずつ変わっていきました。知名度もそうですが、言葉は悪いものの、それまで「ただのアマチュアバンド」と見ていた人たちの評価が、確実に変わった感覚がありました。

たとえば、自分が通っていた美容院のスタッフの方。明らかに元ヤンっぽい雰囲気の人で、バンドにもあまり興味がなさそうでしたが、この日のライブを観て感動してくれ、自分のことも認識してくれるようになりました。結局、この人が僕らのライブを観たのは、後にも先にもこの一度だけらしいですが。

後に自分と交際をした女性もこの日のライブでCREEPSや僕の存在を知ったようでした。
その他でも暮らしの中で、声をかけられることが多くなりました。

Hi-STANDARDのライブが弘前で開催されたことは、間違いなく、その後の地元の音楽シーンにとっても非常に大きな出来事だったと思います。

1999年の終わりと、オムニバスリリース。次のステップへ。

年の瀬には、十代の時に聴いてテレビでも見ていたJITTERIN’JINN(ジッタリン・ジン)のオープニングアクトも経験。そして、オムニバスアルバム『PUNK THE SHOWCASE』(1999年9月20日、SCHOOL-019)もリリースされます。

こうして振り返ると、1999年は確かに激動だったように思います。同時に、とても充実していた一年でもあったと思います。ただしそれは、安定した充実感ではなく、常に足元が揺れているような、不安定さを伴ったものでした。この一年は、CREEPSにとって「成功の年」だったとは言えません。けれど、間違いなくターニングポイントでした。ここを境に、バンドとしても、個人としても、次の段階へ進むことになります。その先に何が待っていたのか。
それは、また次回に書こうと思います。